2021-12-02
天下名胜,举凡有幸访游过的,无不仅得一面之缘,唯独襄阳古隆中是个大大的例外,我竟在那里三易春秋,“游”了近千个晨昏,甚至还大难不死。我想,即使诸葛先生再“孔明”,也不可能料到一千七百多年后,二十世纪七十年代末,会有一位三起三落的伟人敢于挽狂澜于既倒,扭转乾坤的!无疑,作为一名被耽误了十年的“老三届”,我是那场戏剧性变化的受益者。当我被告知可以填报全国所有大学时,倒是还有点自知之明,不大敢去攀高枝。
訪れたことのある天下名勝の中で、ほぼ全部一回だけで、ただ襄陽古隆は大きな例外で、三年、つまりほぼ千日間くらいいた。大災難に会っていたが生きていた。諸葛先生がいくら「孔明」であっても、1700年後、20世紀70年代末にある人が三興三落して天下の局面を根本的に変えるというのが予想できない。疑いがなく、10年ほど遅れられた「老三届」として、私がその劇的変化の受益者である。全国大学に応募できると言われたとき、己を知ることで、高い志望しなかった。
但是,另一方面,也要恕我说句“儿也嫌母丑”的忤逆之话,在不予考虑的对象中,名列首位的正是我的母校。在人们眼中,她只是个不入流的“高师班”,而且还不知她猫在襄阳的哪个角落,毕业后的前程不过家祖之翻版:一孩子王,一冬烘耳!可是,经过又一场所谓“扩招”的戏剧性变化后,终于未能逃脱如来掌心,档案偏偏就在招生“散集”之前,被这个“高师班”拎将去了!时耶?命耶?
一方、「子供が母の醜いに気にしない」ではないと言わねければならない。最初大学応募候補には母校がなかった。そこはただの「高師班」で、場所も目立たなく、卒業しても発展がないと思われる。でも、拡張応募で劇的な変化で、またそこから逃げられなく、この「高師班」に募集された。これが運命かな。
如果不是迫切需要改善生存环境,当年的那个所谓“金榜题名”,我也许就挂“榜”而去了。可是,当母校用近乎哀告求来的交通车,把我们七八级新生从襄樊火车站接到她的怀抱时,我一下惊呆了!
生存環境を改善したくなかったら、そこに行かないかも知れない。だが、母校が工夫して通勤車で私たちの78級新入生を迎えに来る時に、びっくりした。
正是深秋叶黄时,古道西风般的苍凉,寒窑瓦舍般的简陋,显见得已是捉襟见肘了,却还要支持“扩招”,将我们这些“弃儿”,不顾一切地收揽怀中。直觉告诉我,今生今世,我遇上了衣衫褴褛的慈母,舐犊情深的亲娘!一股巨大的热浪,裹挟着满腹的悲怆与心酸,直从心底扑向喉头,为母校的深恩大德,我几乎就要落泪了!
ちょうど真秋で、西風が冷たくて、校舎が古くて質素で、明らかに困境にいる関わらず、まだ拡大募集していて、私たちを受け入れた。私がこの一生の親しい母親に会えたと直感した。心のなかで悲しみと感動が溢れて、母校の恩に泣くまで感動した。
心潮未平,迎接新生的老师,回身指着背后一座巍巍大山说,这里就是闻名天下的古隆中,我们现在所站的地方就是卧龙岗,诸葛亮躬耕南阳、刘玄德三顾茅庐的故事就发生在这里。
興奮しながら、新入生を迎えに来る先生が、背後にある山々に向かって、ここが有名な古隆中で、私たちが立っているところが臥龍崗で、当時諸葛亮躬耕南陽、劉玄徳三顧の礼の物語の場所だ。
我又是一惊!这一惊非同小可。
これを聞いて驚いた。
没有想到呵,收留我们的母校,竟享有如此一块风水宝地!这里是中国智慧之神横空出世的地方,是孕育擎天国柱的基地,它曾经为古老的神州升起一颗何等耀眼的明星!它的神秘与传奇无与伦比,不知吸引过海内外多少黄髫皓首,红颜橙珠!羽扇纶巾、仙风道骨的先生,古往今来令多少人为之倾倒啊!那一番隆中对策,指点江山,道破天下,茅塞顿开的又何止刘备之昆仲!……是何公决策母校寻址于这块四海莫不仰慕的神奇之地?这可是兴邦育材的神来之笔啊!试问,母校得天独厚,中国大学谁堪与之比肩?此乃我等生平之大幸也!
私たちを受け入れた母校にはこういう風水宝地があるとは思わなかった。ここは中国知恵の神が出馬したところでもあり、国柱を育てたところでもある。ここのおかげで、なんと輝く星を生んだでしょう。国内外の優秀の人物が惹かれてるだろう。羽扇纶巾、仙风道骨がどれだけの人に憧れられているでしょう。隆中対策、天下を指導、道破天下が劉備比べられないのだ。どなたが母校の校舎をこの人々に憧れられるとこにしたのでしょう。これはどんなに賢い選択でしょう。中国の大学の中で、母校の環境と比べられるものがないと思う。これが一番幸いなことだ。
我和我的那些手足同窗,哪里等得及安顿,一扔下行李,就迫不及待第一时间飞跑着扑了过去。
私と友人たちが荷物を置いてから片付けもしないままで、すぐ飛ぶように行っていった
古隆中群山环抱,秀美幽静,罗贯中曾云:“山不高而秀雅,水不深而澄清;地不广而平坦;林不大而茂盛。”那远道而来的十七岁琅琊少年,就是在此地“躬耕”“苦读”,为其日后的叱咤风云,整整磨砺了十年。
古隆中が山々に囲まれて、優美幽静である。羅貫中がこう書いた。「山は高くないが優雅で、水は深くないが澄んでいる。地が広くないが平坦、林が大きくないが生い茂ってる。」あの十七歳少年は、ここで「躬耕」「苦読」し、自分を磨き、その後の出馬まで10年経っていた。
涉过岗前半月溪,走近山门,迎面一座高大石牌坊。“古隆中”三个遒劲大字镌刻在牌坊上。相传,此牌坊建于清光绪十五年(1889),三门四柱,高约7米,宽9米,坊柱上刻有古代人物故事等图案,生动逼真。牌坊两厢,分别横竖镌刻两副楹联。横联取诸葛亮的“淡泊明志,宁静致远”;竖联则摘自杜工部《蜀相》两句:“三顾频烦天下计,两朝开济老臣心”。
半月渓を渡り、山門に近付いて、正面に高大石鳥居がある。「古隆中」の3つの大字が鳥居に刻んでいる。聞くところによると、この鳥居は光緒の十五年(1889)に建てられ、三門四柱、高さが約7メートル、幅が九メートルで、坊柱には古代人物物語などの絵が刻んでいて、生き生きとしている。鳥居両側に、それぞれに対聯が刻まれている。諸葛亮の「淡泊明志、寧静緻遠」、杜工部「蜀相」の「三顧の礼をし、頻繁に天下の大計を討論して、二朝の創始と補佐老臣の忠誠」を引用した。
穿过牌坊,行不到二三十米,在山道右侧,便见一片低矮的耕地,此即是先生当年的躬耕之所。起敬之余,你没能听见“相父”那“臣本布衣,躬耕南阳”欲报先帝殊遇的奏陈?那湮濡于《出师表》中疲惫而略显苍老的声音里,几多哀切,几多无奈,几多承诺,几多涕零?又几多忠心,几多深情?令后世诵读者无不为之动容。
鳥居を通り抜け、二、三十メートルぐらい行くと、山道の右側に低い耕地があり、こは当時の躬耕の所だ。尊敬していながら、予報先帝殊遇の奏陳で「相父」の「臣本布衣、躬耕南陽」と君が聞こえないなの?『出師表』に潜んでいる、やや老けた声には、いくら切なく、どれほど無力か、どれほどの承諾があるでしょう?どのように心を込めて、どれほど深い感情を込めているでしょう?後代の読者に感動させた。
走过先生的“躬耕”之地,沿坡而上,便见“武侯祠”、“三顾堂”等一班纪念性建筑,其古朴端庄的风格,恰如先生的为人。
武侯祠是祭奠凭吊之所,位于隆中山腰,是纪念诸葛亮的主体建筑。始建于晋朝,代有修缮,现存为清朝康熙年间修建,1973年又进行了改建。
先生の「躬耕」の地に沿って、坂に上がり、「武侯祠」、「三顾堂」などの記念性建築がある。その端正なスタイルは、先生のごとく。
武侯祠は祭り所で、隆中中腹に位置し、諸葛亮を記念する主体建築だ。晋時代に建てられ、代々には修繕され、現存なのは清康熙年間の建物で、1973年に再改築された。
祠外古树参天,祠内庭院错落。武侯祠共有四进三院,中院有左右廊房,大殿内木匾上雕刻董必武“三顾频烦天下计,一番晤对古今情”的题词。正厅、西厅陈列诸葛亮生平简介,后厅则见尚未完工的孔明塑像。西侧为配殿,有刘关张画像。四个殿堂中挂满了历代名人题写的匾额、诗词和对联等。“诸葛大名垂宇宙,万古灵霄一羽毛”,“出师未捷身先死,长使英雄泪满襟”,武侯祠里尽是深深的敬佩,亦不无怅然若失的惋惜。
祠外に古木が高くそびえていて、祠内に庭が並んでいる。中院には左右の廊房、殿内の匾には董必武の「三顧の礼をし、頻繁に天下の大計を討論して、二朝の創始と補佐老臣の忠誠」が書かれている。正庁、西庁には諸葛亮生涯紹介が陳列され、後庁には未完成の孔明像だ。西側が配殿で、劉関張の画像あある。四つの殿堂には歴代の有名人の匾、詩と対聯などがある。「諸葛の名声が宇宙に残り、万古の霊霄が羽のごとく」、「出馬してまだ勝利しないうちに死んでしたい、英雄にも感動させ涙まで流した 」。武侯祠に深く尊敬して、残念も感じている。
三顾堂则是发生三顾茅庐、隆中对的传奇之地,它位于武侯祠南侧,坐落在绿树掩映之中,是专为纪念刘备“三顾茅庐”和诸葛亮“隆中对”而修建起来的,始建于明成化年间,清代曾两次翻修,现存为清光绪年间式样。
三顧堂は三顧の礼の場所で、隆中対の伝奇地だ。それは武侯祠の南側に位置し、緑の木に囲まれ、劉備「三顧の礼」や「隆中諸葛亮」を記念するために建られた。最初明成化年間に建てられ、清時代に二回再修築され、現存するのは光緒の年間の仕様だ。
三顾堂为一“四合院”建筑,门前悬挂两盏古香古色的宫灯,白底黑字的“三顾堂”匾额,横挂在大门上方。“三顾堂”两旁廊壁上砌嵌数十块石碑,分别刻有隆中全景图、诸葛亮布衣草鞋像、前后《出师表》和《隆中对》图等。厅堂中悬挂的《三顾图》为清代工笔画,端详间,刘玄德问计天下,诸葛亮指点江山的情景如在眼前。人们在敬佩诸葛亮盖世之才的同时,内心更为他那一诺许终身的报效之情所打动:刘备给了诸葛亮什么?年薪十万,还是美人三千?都没有!不过是三顾之举,几句暖心话罢了!可先生偏偏就看重这个,答应了刘备!这一诺,矢志不渝;这一诺,风雨兼程;这一诺,不避艰险;这一诺,夙夜忧叹;这一诺,二十七年生命;这一诺,鞠躬尽瘁,死而后已!这就是“物美价廉”的中国知识分子!因此,我们能不能说诸葛亮的这一诺就是中国知识分子的“隆中精神”?
三顧堂は「四合院」式の建物で、ドアの前に二つの古風のライトがかかっている。時代がかった、白地に黒の字の「三顧堂」の絵馬が門の上に彫刻されている。「三顧堂」の両側の壁の上にはめ込まれて廊下の壁に数十枚の石碑がはめられて、それぞれ隆中全景図、諸葛亮布衣草履像、前後《出師表』と『隆中対』など隆が刻んでいる。ホールで掛かっている「三顧図」が清時代の毛描き画、眺めの間に、劉玄徳問計天下、孔明は天下を指導する光景が目の前に現れた。人々は諸葛亮の才能を感心すると同時に、もっと彼の一諾許終身の尽力の情に打たれた。劉備が孔明に何を与えたのか?年俸十万、ドル三千?ない!ただ三顧として、心暖かい一言だけだ!でも先生がこれを大事にし、劉備に承諾した!この承諾で誌を変えた。この承諾で風雨兼行。この一诺で困難や危険を顧みない。この一諾で朝晩憂嘆。この一諾で二十七年の生命。この一诺で燭は身を減らして人を照らす!これは「安い」の中国人インテリ!したがって、諸葛亮のこの一诺は中国知識人の「隆中精神」と言えるでしょう?
三顾堂门口有三棵参天松柏,相传拴过刘、关、张的马,至今仍绿叶如盖,不仅笑迎四方游客,更见证着诸葛亮的“隆中精神”。
三顧堂の門前には高い松柏が聳えて、刘、关、張の馬がここに止まったことあると言われえいる。今でも茂っていて、観光客を迎えて、諸葛亮の「隆中精神」を表している。
三顾堂背后是“草庐亭”,始建于清朝康熙年间,后经多次修葺,亭上“草庐”二字系当代大书法家郭沫若所书。它倚山视谷,环境幽静。亭旁古树缠藤,苔藓如昔,别有一番风光。当年诸葛亮就住在此处。站在草庐门前,人们彷佛能看见求贤若渴的刘备正拱立堂前,耐心地等待诸葛亮午睡醒来呢!
三顧堂の裏には「草廬亭」で、清康熙年間に建てられ、後に何度も修築され、上に「草廬」の二文字は現代大書法家郭沫若が書いたものだ。山と谷と隣接し、環境は閑静だ。亭の隣に古木纏藤、苔が昔のままで、独自の風景になっている。孔明はここに住んでいた。草廬の門の前に立って、賢人を渇望する劉備が堂前に立ち、根気よく待って、起きる諸葛亮を待っている様子が見えるようだ!
草庐为仿汉建筑,砖木结构,建筑面积463.5平方米,分两个院落,由草堂、客房、卧室、厨房、内走廊等组成,造型古朴典雅,为游人领略“三顾”之情的必到之处。门额上题有“草庐遗址”四字,门两边石柱上刻有一幅对联:“扇摇战月三分鼎,石黯阴云八阵图。”
草廬が漢式建築で、レンガ木構造で、建築面積463.5平方メートル、2つの庭に分かれ、草堂、客室、寝室、キッチン、内廊下などから構成され、造型は古風で質樸優雅で、観光客に「三顧」の情を味わってもらう。ドアのに「草廬遺跡」という四つの字があり、両辺の石柱に刻まれている対聯が「団扇を揺いで月の下に戦い、三國が対立して、黒い石と曇りの中に八陳図を描いた」だ。
“草庐亭”旁边是“六角井”。“六角井”位于“三顾堂”和“草庐亭”之间的右侧,据传是当年诸葛亮在隆中的生活用水井。
「草廬亭」の横には「六角井戸」。「六角井」は「三顧堂」と「草廬亭」との間の右侧にあり、当時は諸葛亮の隆中生活用の井戸だ。
三顾堂前约100米立有一长条浑圆憨石,镌刻着“抱膝处”三个鲜红大字。这里便是当年先生每自比管仲、乐毅,看云卷云舒,抱膝长吟,欲挂云帆济沧海的地方。
后出三顾堂,攀至半山腰,有一古建筑,名为野云庵,相传也是诸葛亮常落脚的地方。
三顧堂の前に約100メートルに細長い丸い石が立てられ、3つの真っ赤大字「抱膝所」が刻まれている。ここは当時先生が自分を楽毅管仲と比べ、抱膝长吟して、準備して時期を待っているところだ。
三顧堂の後ろから出ると、る山の中腹まで登と、古い建物があり、名前が野云庵で、諸葛亮よく泊るところと言われている。
再往上就到了古隆中山顶。令人没有想到的是,置身其间,你的视野可东吞云梦古泽,南抚茫茫九派,西击巴蜀天险,北望秦岭狼烟,而悠悠汉水就在你的脚下,“三国”胜迹之大观,几乎无不尽在你的眼皮子底下。这种不无意外的惊喜发现,你很可能要问,诸葛亮当年选择此地隐居,是历史的巧合呢,还是上苍的安排?这,恐怕就只能作为一个神秘的“三国猜想”让游人们去研究了。
もっと上に上ると古隆中の山頂だ。意外なのは、そこに身を置くと、あなたの視野が東に雲夢の古い滝に、南に茫然とした九派に、西には巴蜀天険、北には秦岭戦争に達せる、漢水が自分の足の下に流れていて、三国の名所大観が全て視野に収められる。孔明当時ここを隠居地にしたのは、歴史の偶然か、それとも神の手配か?これは、おそらく神秘的な「三国予想」にしてみんなに研究してもらえなければならない
。
在母校求学的那段时光里,晚餐后共游隆中,是我和年兄卢苇每日必修的功课。那个时候旅游业尚在含苞之中,没有围墙,没有篱笆,人们更没有钻进钱眼里,管理员们一听说是“师专”的学生,没有不大开绿灯的。因此,我们天天得以揖见先生,在那里整整免费饱游了三年!
母校で勉強の日々に、夕食後共游隆中は、私の同窓卢苇と毎日必修の科目だ。その時の観光業はまだ振興していなく、塀がなくて、垣根もない、人々はまだそれほど金を追求していない時代なので、管理人たちが「師専」の学生と聞くと、必ず入れてくれる。そこで、私たちは毎日先生に拝見でき、三年間無料で観光できた。
寒窗不负苦读人,而今,当年的师生,许多教有所成,学有所成,成为专家学者教授的大有人在。采天地之灵气,聚日月之精华,在古隆中的怀抱里,衣衫褴褛的母校精心孕育着,几多艰辛,几多劳顿?又几多春晖,几多深情?虽说早已桃李满天下,可我的母校啊,“谁言寸草心,报得三春晖”啊!
努力すれば結果がある。当時の先生と生徒の中で、多くなのは成功して、専門家学者教授になった。空の霊気を取り、月日の精華を集め、古隆中に抱かれ、母校に育てられ、どれほど辛く、どれほど疲れあった?みんな卒業したとは言え、必ずの恩恵に。